昭和52年10月14日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心して、まめで家業を勤めよ。君のためなり、国のためなり。」

 これは教典のなかでも色々問題になっておるこれは御教えです。例えば君のためなりとか、国のためなりというものが、行けないとこういう訳なんですね。けども教祖様のみ教えの中には、それこそどう言う所にでも、この入って行けれるというか、普遍性に富むというか又は頂く側としては、おかげを頂ける様な頂き方がなされなければならないと。昨日今度の記念祭の記念品に、教典感話の私が十年間お話を致して参りました。
 夏の夏季信行の、私が手控えにしておったものを、今一冊のご本にこんな立派なものが出来てきたんです。本当に見事な立派な。私今日開いてみてから、改めてから気付いたんですけれども、金光様のこのお書き下げが、是は心という字を書いておられますね。是はあの私共の長男の嫁の里であります、東京の二葉寿司にお客さんとして見える方が、その自分ところのあちらのお兄さんが、妹が九州のこの金光様、金光教の教会に嫁ってるんだと言う事を話されたら、あの金光教の教師はね僕は学校時代の友達だと。
 だから今度行ったら、何か書いてきてもらってやろうと言う様な事を、まあ冗談かと思いよったら、本当に書いて来て下さったと言う訳なんです。こんな見事な大きく書いて、ここにあの金光様の雅号である、へきすいにそれにこう判まで押してあります。普通金光様は普通お書き下げになるときには、決してこの判をお使いにならないそうですね。ここのはみんな、そのここから来たのですから、その判が押してありますよ。
 その心というのが是にこうして出ておりましたが、私はそんな事を全然気が付かなかったんですけれども、私の写真が次にこうして出てるんです。私があのお話をしておる。それで下に何か一筆書けというから、私がこんな「心ひとつですべてをつくる」という、それをここに書いてあるです。ははあ神ながらな事だなあと思ったんですね。金光様のこの心という、それに私もやっぱり心ひとつでという、心という字を書いてある。ですから私共の結局御教えが、こんなのは金光教的じゃない。
 今の時代に合わないの、添わないのとこう言う様な事では、だからおかげが受けられんのです。もうどこにか御神意があるに違いはない。いかにならまあ、百年前の御教えでありましてもです、現代に生き生きとして、それが通用する頂き方を、こちらがしなければいけないという事なんです。だから教典の中から、このみ教えの外にもありますね、いくつかのは、もう現代の金光教には、ふさわしくないと言うので、色んな議論になっておる。議論がまああっておるという話を聞きましたけれども。
 それで私今日はここんところを、このいわゆる教典感話がどう書いてあるだろうかと思うて、ちょっと今探してみたですけれども、ちょっと探し当てませんけれども。確かにねこの君のためなりと言う事をね。確かにこんなふうに書いてあると思うんです。「信心して、まめで家業を勤めよ君のためなり、国のためなり。」君のためというのは、僕とか君とかというあの君だね。まあ神ご一任その時分は、そんなふうに申しておりましたですね。天皇陛下の事をさしておる事は間違いないです。
 けれどもその君と言う事は、君自身のためだよという事。信心してまめで家業を勤めると言う事は、健康で一生懸命家業の行に打ち込まれると言う事は。とりもなおさず君自身のためであると同時に、それは国の力ともなるんだよというふうに、確かに書いておると私は思います。それこそだからそういう意味合いで素晴らしいと思うんですよね。こじつけると言う事じゃなくて、君と言う風に書いてある。おまえ自身のためだよ、そのおまえ自身のためであると言う事が、そのままお国のためになるんだ。
 国の力にもなるんだと。だから国の力になるような、言うなら働きを現していかなければ、信心ではないと言う事になります。信心してまめで家業を勤める。君のためである。またはそれがそのまま、お国の御用にでもお役にでも立つ。それとは反対の事になっておるような働きも無いではないと思います。末永先生があちらから、手紙をよこしますときに必ず必ず書いております。
 ブラジル国の繁栄と、平和をお願い申しますと書いております。なら先生はほんなら、あちらのほうへ国籍を移す事になりますから、ブラジル人と言う事になるわけなんです。ですからもう当然の事として、ブラジルの平和と繁栄を祈るのが、もう当然なんだ。なら日本国民であるところの私共の場合になってみればです。日本国のいよい、繁栄と平和を祈らなければ信心ではないのです。だから祈っておるのですから、私共言うておる事、しておる事を行うておる事ですよ。
 いわゆるなら働いておる事、その事がです果たして、祈りと一致するかと言う事が、何時も思いに置かれなければいけない。ただ同士討ちと言った様なですね。自分だけが良い、自分だけがよければと言った様な事ではいけないと言う事になります。自分が立って他の人がそれで倒れると言った様な事ではいけない。どうでしょうか本気で私共、日本国家の繁栄又は平和を祈らせて頂いておるだろうか。私は御祈念をさして頂くときに、いうならば天下国家の事を願います。
 時には一段心がねこう引き締まる思いが致します。以前は反対でした。自分の事には引き締まる思いで、又自分が直面しておる難儀な事だけは、どうぞどうぞと繰り返し祈ったもんです。けれどもこの頃では段々いうならば。日本の言うなら繁栄と平和。天皇陛下を中心とした日本国民の助かりと、立ち行きしかもその助かりと立ち行きが、そのまま世界の総氏子の立ち行きと助かりにも繋がって参ります様な日本の平和と。
 繁栄がそのまま世界各国の繁栄と平和に繋がって参りますように、私はここんとこの御祈念をさして貰う時に、何かジーンとこう、身が引き締まる思いが致します。だけに私はその天下国家の事が、実感を持って祈れておるという風に思うんです。だからそういうなら、天下国家の事が本気で、いうならば祈れれる信心が出来て、初めて自分の行うておるところの、いうならば働きをしておるその働きがです。
 そういう祈りを持つ以上です、とてもほんなら国家のために、反対になるような働きでもしてはならないという思いも、いよいよ強うなってくるし、いわば反省がそこになされるわけだと思うのです。教祖金光様のお話の中に。自分の門口をはわかせて頂くと、自分の門口を綺麗にすると言う事は、そのまま世界を清めると言う事に繋がるんですよと教えておられます。ところが確かに自分のうちの門口だけは綺麗にはわいておるけれども、それが隣の方へ行ったっちゃかんまんと言うたごたるふうで。
 こうこしたはわき方するなら、どうなるでしょうか。こうやってはわかずにこうこやってはわいていく、両隣のほうへごみは散らかっていくじゃん。自分とこの門口をはわかして貰う事は、そのまま世界の清まると言う事に、世界の一部が綺麗になったと言う事に繋がらなければ、いわば天下国家を祈っておる者の、お掃除の仕方とは言えない事になるのです。自分方の前さえ綺麗になりゃ良か。
 ゴミは隣近所のところへ、はねちらけてあると。私はそういういうならば、仕事というかそういう考え方の人が、今は沢山おるのじゃないかと思うです。自分方だけが儲け出しゃ良かと。自分方だけが綺麗になりゃ良かと。で、自分方の前だけは綺麗にして、そのゴミはどこさんいっとるかちいうと、両隣の方さん行ってしもうとる。そう言う事は例えば、今日の御教えを頂くと出来ません。天皇陛下を中心に日本国民が。
 どうぞ立ち行きますように、本当の助かりになりますようにと、私は本気で願わせて頂いておればです。それで良いという事ではない。その日本の助かりが、日本の国民の助かりがです立ち行きが、世界総氏子の立ち行きにも助かりにも、繋がっていかなければならんと言う所が、本当に祈り願えるときにです。今の世界の難儀というものが、そう言う所から、助けられると言う事になってくるのじゃないでしょうか。
 自分の国さえ良ければよい。先ずはやはり日本の、自分の国が助からなければならんが、その助かりがそのまま、世界の国々の助かりに繋がっていくという、おかげにならなければならない。しかもそういう働きをすると言う事は、そのまま君自身のためだよという事。君自身のためにもならなければ、お国のためにも、世界天下国家のためにもならないと言った様な生き方。いうならばゴミのような生き方。この世にお邪魔になりに来ておるだけのような生き方。それでは金光様のご信心にはもとるわけです。
 自分が例えば儲け出したと言う事がです、それだけ、世の中が明るうなるような儲けだし方、立ち行き方になってこなければいけないと言うのです。そういう私は、心を常に持ち続けると言う事が、君のためにであると同時に、国のためにもなる事だというふうに思います。こういう風に頂いてまいりますとです、もうこういうこの御教えは、もう金光教的ではないから。と言う事ではなくていわば、大変素晴らしい御教えであると言う事が分かります。
 私共の働きそのものは、勿論自分自身のためけどもそれは、お国の例えば繁盛にも繋がるような祈りというか、中身を持ってのおかげでなからなければならない。それが君のためになり、国のためになり大きく言うと、天下国家のためにそれが繋がって行く様な働き、そういう働きをさして頂きたいという願いが、神様の心に叶う生き方だというふうに思います。成程そういう心の内容がなからない限り、「心ひとつですべてをつくる」と言った様な事には繋がらないと思うですよね。
   どうぞ。